本作は勧善懲悪の物語ではありません。【御ナラティヴ】
『御ナラティヴ』における善悪は、単純に「ラスボスが悪で、勇者が正義」という形では整理されていません。本作にはラスボスと勇者が登場しますが、それは一般的な物語で見られる勧善懲悪の構図とは少し異なります。ラスボスは世界を脅かすだけの存在ではなく、すでに国や社会を治めている統治者でもあります。一方で、勇者はラスボスを倒すために存在する者たちですが、彼らもまた無条件に正義の象徴として描かれているわけではありません。本作の世界では、善悪は立場や役割だけで決まるものではなく、その人物が何を守り、何を選び、どのように生きるかによって形づくられていきます。
本作に登場するラスボスたちは、非常に強大な力を持っています。もし彼女たちが望めば、勇者を力でねじ伏せ、反抗する者を排除することもできるでしょう。しかし、彼女たちは勇者をただ殺すのではなく、勇者局という場所で育成し、管理し、時には導いています。これは、勇者を敵として消すためではなく、勇者という存在を社会の中に組み込み、無意味な死や混乱を避けるためでもあります。つまり、本作のラスボスは「倒されるべき悪」ではなく、「圧倒的な力を持ちながら、秩序を維持する責任を背負った存在」として描かれています。
一方で、勇者たちもまた、絶対的に正しい存在ではありません。勇者という言葉には、正義、希望、英雄といった印象があります。しかし、本作における勇者は、まだ未熟な者であり、学び、訓練し、時には失敗する者たちです。彼らはラスボスを倒すことを目指す立場にありますが、その目的が常に正しいとは限りません。力を持つこと、誰かを倒すこと、勝利することが、そのまま善になるわけではないからです。勇者局において勇者同士の決闘が禁止され、無謀な死が否定されるのも、勇者という存在を単なる戦闘者として扱わないためです。
『御ナラティヴ』の世界では、善とは「相手を倒すこと」ではなく、「生き残らせること」「秩序を守ること」「無意味な犠牲を減らすこと」と強く結びついています。特にチョイナが重視する「死んだらダメ」「生き抜く」という考え方は、本作における善悪観をよく表しています。たとえ勇者がラスボスに挑む存在であっても、犬死を美化することはありません。勝利よりも命を守ること、名誉よりも生きて帰ることが重視されます。これは、勇者を甘やかしているのではなく、命を消耗品として扱わないという本作の基本姿勢です。
また、本作では支配や統治も単純な悪としては扱われません。ラスボスたちは長期にわたって国を治めていますが、それは恐怖だけによる支配ではありません。彼女たちは善政を敷き、国民からも慕われています。もちろん、強大な力を持つ存在が長く世界を治めることには危うさもあります。しかし、本作ではその危うさを含めて、ラスボスたちは世界の安定を担う者として存在しています。善悪は制度の名前だけで決まるのではなく、その制度が人々を守っているのか、苦しめているのかによって判断されます。
したがって、『御ナラティヴ』における善悪は、白と黒に分かれた単純なものではありません。ラスボスにも守るべきものがあり、勇者にも未熟さや危うさがあります。誰かを倒せば正義になるわけでもなく、支配しているから悪になるわけでもありません。本作が描くのは、力を持つ者がどう責任を負うのか、挑む者がどう生き残るのか、そして社会の中で異なる立場の者たちがどのように共存していくのかという構造です。『御ナラティヴ』における善悪とは、敵味方の区別ではなく、それぞれの立場から何を守ろうとするのかによって見えてくるものです。本作は勧善懲悪の物語ではありません。
